印象
「体育」ときいて、どんな記憶がよみがえるでしょうか。
鉄棒
跳び箱
ドッジボール
持久走
運動会
では、どんな印象が残っていますか。
過去のモノ
苦手だった
いやだった
なくなって、セイセイしている
実際、体育は学校をでれば、エンが切れます。
学校の科目というのは、みな同じ運命にあるかもしれません。
英語
社会
理科
算数
学校の科目の宿命ともいえるでしょうか。
そこを卒業して、新しい世界に旅立つものですから。
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名前を変えよう
ところが、学校の科目のなかで、「体育」だけは名前が消えませんでした。
それは、旧10月10日です。
「体育の日」
学校の科目で、祭日として残っていたのです。
理科の日なので仕事はお休み、なんてありませんから。
しかし、です。
そういう「体育」に、イチャモンをつけるヒトがでてきました。
名前が適切でない。
いったい、体育にどんなウラミがあったのでしょうか。
こういうのをいうひとは、だいたい体育が似合わないヒト、というイメージですけど。
そのかわりに登場したもの。
それが「スポーツの日」です。
これにて、体育というコトバは、完全に過去のものになってゆきました。
スポーツって、何でしょうか。
ゲームですか?
これからは、スポーツをどんどんもり上げよう。
いいスポーツをしよう。
e-スポーツですね。
パソコン画面相手に、もり上がるスポーツ。
やれやれ。
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昔の名前で出ています
メディカルフィットネスこまちで行われているのは、スポーツか?
どう判断していただいても、結構です。
スポーツ感覚でたのしむのもアリです。
たのしくなければ、つづきませんから。
でも、ここではあえて「体育」を出させていただきます。
「体育」の復活。
昔の名前で出ています。
といっても、小学校の体育授業に逆もどり、というわけではありません。
「体育」は、「カラダ」を「育てる」と書きます。
これこそが、体育の本質です。
自分のカラダを育ててゆくこと。
その行為こそが、体育なんですね。
いまの年は、おいくつですか?
いまの体力は、いかほどですか?
いまのカラダは、どのくらい自分のいうことをきいてくれますか?
そういった「いまの自分」を知ること。
そして「いまの自分」を育ててゆくこと。
この行為が、ほんとうの「体育」です。
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体育のたのしみ
ですから、体育は、いつも自分の内に宿っています。
いまの自分の育て方なんですから。
いくつになっても、ある。
死ぬまで、ある。
そういういまの自分を、どのように育ててみようか。
花や木を育てるのと、同じ発想です。
栄養の与えすぎは、よくない。
かといって、放置しっ放しでいいものか。
その結果、どんな変化をみせるだろうか。
どんな芽吹きがあるだろうか。
「いまの自分」を育てるのですから、唯一、自分だけの科目となります。
人と比べる必要はありません。
そして、スタートは「今」です。
文科省の指導要領にのっとる必要なんて、さらさらありません。
逆にいえば、「育てよう」としなければ、なかなか育ってゆきません。
とくに、年とともに。
「いまの自分」を育てるたのしみに、ひたってみませんか。
メディカルフィットネスこまちでは、そのお手伝いをさせていただきます。
スポーツなんかに手をやいているヒマはありません。
って、これは言い過ぎでした。
(田村)
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