育てる

育てる

もう、無理

もう、年をとったから、無理
もう、病気をしちゃっているから、無理
もう、治療法はないといわれたから、無理

そういう状況におちいってしまって、ガッカリとなることがあります。

でも、本当に「無理」なんでしょうか。
たとえば、樹齢300年の朽ちかけた桜の老木がありました。

幹は、もう変形がいちじるしい。
枝も、たれ下がって、なんとかついているよう。
大きな穴も、あいている。
もう来年の花見は無理ですね。

ところが手入れをおこなってゆくと、次の春には見事な花をつけてくる。
樹木医は、何を見ていたのでしょうか。

育てる

育てる」というコトバがあります。

知っていますか?
使っていますか?
忘れていませんでしたか?
自分の辞書に、入れてありましたか?

人間を「成長」という目で見ると、年とともに、成長は低下します。
いえ、成長しなくなります。
現実は、そういうものです。

人間を「病気」でみると、てごわい病気が増えています。
どんどん進行してゆくのもあります。

病気を「治療」の方法で見ると、方法がなくなってしまうことがあります。
治療の手段は、出尽くしてしまったと。

ところが、これに「育てる」という目を向けてみます。

人間には、いくつになっても「育てる」方法があります。
育てる場所があります。
必ず、見つかります。

病気」がすすんでも、「育てる」ものはあります。
人間のすべてが病気というのは、ありませんから。

治療法」がない、といっても、「育てる」ものはあります。
治療法は、西洋医学の対応法のひとつ、にしか過ぎませんから。

育てるたのしみ

育てる行為の中からは、たのしみが生まれます。
なぜなのでしょうか。

ひとつは「新しい変化」が宿るからです。
あすは、今日とちょっと変わってゆくだろう。
どのように、変わってゆくだろう。

育てる視点は、前向きです。
過去をふり返っていては、見えません。
足場は、「」です。
今に立って、その「」をみてゆく行為。

育てるためには、「コツ」があります。
工夫」を考えること。
自分から「」をだすこと。
楽天的」になること。

もう「無理」というコトバからは、「工夫」も「」も「楽天さ」も生まれません。
自分から「もう無理」という呪文をとなえると、その通りになってしまいます。
せめて「まだ無理」くらいまで。

たとえば、適切かどうか自信がありませんが、畑の世話。
もう体がきかなくなってしまって、畑作業は無理。
でも、それはそれで、野生の草の芽が元気に育つ野になります。
野生を、育てる。
うーん、適切な例にはなりませんね(すいません)。

育てるもの

これまで、どんなものを育ててきましたか。

アサガオ(なつかしい)
縁日ですくった金魚。
トマト

自分の子ども(笑)

本当に、ご苦労様です。
いろんな「育てる」能力を発揮してきたはずです。

さて、このたび「育てる」ものを、新しく追加してゆきましょう。
それは「自分」です。

自分を、育ててみる。
体のうまく動かない部分を育てて、もう少し自由が増やせないか。
だるくて動きたくないのを、うまく育てて、散歩にゆけないか。
朝起きたくなくなっちゃった気分を育てて、朝散歩に出られないか。

自分の体を育てる。
自分の心を育てる。

自分を育ててみようと考えると、育てたいところは、どこかにみつかるはずです。
自分を育てるのに、年齢は関係ありません。
体調は、じつは「思わしくない」方が、育てなくっちゃというところが多くなることもあります。
育てよう、と思ったときが、スタート地点。

ユニークな育て方を、たのしんでください。
育てるものが、みつからない。
うまく、育ってくれない。
そういうときは、ご相談ください。
(田村)